であらう。これは、世界が人間的主體とすでに時間的存在において共通の運命を分かつてゐることより、當然期待しうる事柄である。先づ死についていへば、時間性は文化の世界並びに自然の世界の心髓にまで蟲食んでゐる。壞滅と死とは兩者の行くへに待ち構へてゐる。尤も文化を死より救はうとする企てはしばしば哲學によつて試みられた。その最も有力なる又根本的なるものは無時間性の思想において見られる(一)。すでに詳しく論じた所をここに繰返すを止めて要點をかいつまんで言へば、この思想は、文化の内容より時間性と從つて主體性と聯關する要素を出來る限り取除いて殘つた所を純粹客體として遊離せしめ、かくの如きものの存在の仕方において永遠性を見出さうとするものである。これは文化的主體が一時我を忘れて夢幻の世界に遊んだ如きものであつて、主體そのものが儼然として存立せねばならず、しかして時間性可滅性がそれの本質をなす以上、純粹の空望に過ぎぬことは、すでに述べた通りである。文化的主體を離れては文化の内容は單なる分析的抽象作用の所産に過ぎず、それ自らの實在性など保ちうるものではないのである。第二は吾々がすでに無終極的存續の意味における不死性に聯關して論述した目的論的形而上學である(二)。これは第一とは逆に文化的主體そのものの自己主張・自己實現の活動より出發し、それが時間性の制限を克服して自己を貫徹する必然性を説くものである。その場合主體は單に個體としてではなく共同體として、しかして最も典型的なる形においては、人類として取上げられる。すなはち民族乃至特に人類の歴史は文化の實現の舞臺と看做される。尤も、共同體は個體に比べていかに力強くあるとはいへ、人間的主體が自らの力だけを恃んで自己主張自己實現を時間性の猛威に反抗して成就するといふことは餘りの誇大妄想とも感ぜられるであらう故、世界秩序・世界理性・攝理などの觀念的存在者が援助を與ふべく呼び入れられる。それらは主體性を離れてはイデアとして純粹形相として無時間的存在を許されるであらうが、單なる客體としては勿論何等の實力をも有せぬ故、それ自らの實在性を付與されねばならぬ。しかるに、ヘーゲルの名言の教へる如く、實體(Substanz)は主體(Subjekt)とならねばならぬ。人間的主體の後援者であるべき他者はかくして絶對的主體の位に高められる。それが哲學的形而上學にいふ神である
前へ 次へ
全140ページ中137ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング