る動作に存する故、生と存在とは徹頭徹尾全體的である。かかる存在かかる生においてこそ吾々は眞の無限性に出會ふのである。
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(一) 三二節、三三節參看。
(二) 活動と觀想とについて吾々がしばしば述べた所を參看。
(三) 永遠性に關するアリストテレスの、殆ど典據を擧げる必要のないほど有名な、思想については、例へば次の諸書參看。Metaphysica Vol. XII; De anima Vol. III, 4 seqq; Eth. Nic. Vol. X. ――不死性永遠性を有する人間の理性(nous)が個人のものか否か等の問題に關しては、古代より論議が行はれ、近時 Brentano (”Psychologie des Aristoteles,“1867) と Zeller (”Kleine Schriften,“Bd. I) との間に有名な論爭が行はれたが、それの解決如何は吾々當面の問題には沒交渉である。
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        四二

 吾々は神の愛によつて人の愛がいかに根據づけられるかを見た。神聖なる愛の光に照されて一般に現實の生と世界とがいかなる趣きいかなる相貌を呈するかをも、吾々は考察に入れねばならぬ。自然的文化的生において主體と交渉に立つ他者は廣き意味において「物」と名づけられて「人」と區別される(一)。この場合「人」は必ずしも生物學上人といふものと同一ではない。ここに人といふのは人倫的共同において人格としての資格を保つものである。それ故、人が人格としての待遇を受けず、單に手段として用ゐられる場合において乃至しかせられる限りにおいては、生物學的には適切に人と呼ばれるものも「物」としての存在を保つに過ぎぬ。すなはち、物は、廣き意味においては、文化的生において主體の自己實現の活動に質料として出會ふもののすべてである。人倫的共同において嚴密の意味における人即ち人格である同じ實在者も、文化的活動の質料としての意義を擔ふ限りにおいては物である。「物的」と區別され「人的」と世に呼ばれてゐるであらうものも、「資源」や「資材」としては、嚴密の意味においては、等しく物的なのである。客體は、自然的實在者の象徴としての意義を有する場合のみならず、觀念的存在者としてそれ自身の存在を保つ場合にも、等しく物である故、物の領域は純粹客體・イデアの
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