てはすべての理論的形而上學と同樣に世界創造の思想が甚だ貧弱な根據しか有せぬことは今更ら取立てて言ふまでもない。
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三七
創造において人間的主體は神の愛を體驗する。我にとつて絶對的他者である神は、しかも我に近寄り接觸し、否、我の存在の最深最奧の中心にまで入込んで、我を根本より改造する。接近を嚴禁する神は、いはば自らその禁を犯し自己を抛棄して、他者との滅びぬ共同を設置する。この共同は何ものか又何事かによつて媒介されるのでなく、何等かの理由や目的によつて制約されるのでもなく、自己目的であり無條件的である。共同は共同のために共同によつて成立つのである。この共同の設置こそ創造である。人はこれを理解しようとして、これをいくつかの要素又は契機に分析しそれらの間の聯關や秩序を説くであらう。しかしながら、前にも述べた如く、かくの如きは、あらゆる時間性を超越した神の動作を時間性の制約の下に立つ人間的文化的生の型に嵌めて表象するのであつて、吾々はこれによつて恰も神の本質の客觀的理論的認識に達し得るかの如き錯覺に陷るを常に警戒せねばならぬ。すなはち吾々は合理主義の誘惑を斥けていつも宗教的體驗の語る所に耳を傾けるを怠つてはならぬ。しかしてかくの如き態度を取る時吾々は創造が決して神の單なる自己主張自己實現の動作ではなく、他者本位の愛の行爲であるを解するであらう。神においては愛と創造とは全く同じ事柄の二つの異なつた見方呼び方に過ぎぬといつても過言でないであらう。吾々日常の經驗に徴するも、純眞なる愛は自己省察によつては知り難きものである。今假りに吾々自身アガペーまで昇り得たとして――かくの如き自信ははじめより自惚自己欺瞞の危險に晒されてゐるが――しか假定して、吾々の自己省察の目の前に先づ浮び出るものは、活動の性格を帶びた自己實現の姿である。自己省察によつて知られる愛はエロースなのである。ただ他者が愛の主體であり、吾々自らが愛せられるものとして、身にしみじみと愛の力を感ずる時、吾々は人間にあり得る限りの眞の愛の淨き閃きに打たれる。人の愛と同樣に神の愛に關しても、吾々は愛せられる者として即ち宗教的體驗において、はじめてそれの何ものかを知るのである。宗教的體驗を離れて神の愛そのものを直接に認識しようとすれば、今假りに人間の認識能力にこの不可能事が許されるとし
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