るであらう。それ故絶對者は自己の外に何ものかを有せねばならぬであらう。さて、この何ものかは、或は思惟の事柄であり從つて觀念的の何ものかであるか、或は事實であり從つて實在的の何ものかであるかである。今思惟の事柄であるとすれば、絶對者は、立入つて何と考へられようと、例へば實在者從つて充實したものと考へられようと或は反對に空虚そのものと考へられようと、結局他者性を媒介として自己同一性を貫徹しようとするもの、他者において自己を實現しようとするものとして、言ひ換へれば、文化的主體の像によつて、表象される外はないであらう。これは率直に單純に空虚に留まるべきものがただ一時遁がれの手數をかけるといふだけに過ぎぬであらう。之に反して他者を事實的存在の事柄とすれば、それはただ宗教的體驗においてのみ與へられる。宗教的體驗の外においては、絶對者も他者も先づ客體として從つて思惟の事柄として與へられねばならぬ。ただ宗教的體驗においてのみ主體は自ら實在者として實在する絶對者と交渉乃至共同に立つを知る。絶對者が實在する他者を自己の外に有することは、事實としてはただここでのみ與へられる。すなはちここでのみ絶對者の問題は眞實の問題として成立ち得る。
 その問題は簡單にいへば次の通りである。絶對者神聖者と關係交渉に立たうとするものそれと接觸するものは無に歸する外はなく、それに對して他者であるものは非存在者以外にあり得ぬならば、いかにして主體は我自らは現にそれの面前に立ちそれの他者として存立し得るのであらうか。創造と神の愛とがこの問に對する答へである。「無よりの創造」はややもすれば、無先づあり神がそれに働きかけてその中より有を造り出す、といふ風に表象され易い。しかしながらかかる表象に譬喩的表現以上の意義を許したならば、甚しき誤解を免かれ難いであらう。神の働きを時間的に畫がくことの不穩當を除いても、そこでは神の働きが文化的活動の像によつて表象されるため、無は嚴密の意味の無ではなく、存在の一種の仕方、この場合可能性乃至質料としての有り方に過ぎぬものとなつてゐる。周知の如く、文化主義に徹底したギリシア人はかくの如くに 〔me_ on〕(無)を考へた。しかしながら無は有の傍ら又は外にそれ自らの存在を保つものとして存在してゐるのではなく、單なる契機しかも克服されたる契機として有のうちに包含されてゐるのである。主體を
前へ 次へ
全140ページ中98ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング