ナあり無への沒入であるを解せぬより來る。言ひ換へれば、死を客觀的實在世界の事件として客觀的にのみ觀るより來る。時が客觀的時間性に等しいならば、すでに述べた如く、そこでは存在と存在との、現在と現在との、連續があるのみ。死は一つの存在より他の存在への移動を意味する外はない。更に立入つて何であるかに關はりなく、それは本質上存在の變形に過ぎぬであらう。それ故死に出會ふであらう主體は死そのものよりは存在の壞滅を恐れるを要せぬであらう。若しこれを恐れる必要があるとすれば、それは他の事情他の理由に由らねばならぬであらう。それ故、永遠性と不死性とを求め又は信ずるものにとつては、かくの如き事情や理由の存在せぬこと、乃至は積極的に、生を無終極的に繼續せしめる事情や理由の存在すること、が切なる關心の事柄となるであらう。
[#ここから2字下げ]
(一) Physica, 251 b.
[#ここで字下げ終わり]

        二四

 ここよりして吾々はプラトン以來の古き長き歴史を有する所謂靈魂不死性の論證の意義を理解する新しき手蔓を得るであらう。それらの論證は、純理論的觀點よりみれば、極めて薄弱なる論據及び推理の上に立つてゐるであらうが、背後にあつてそれを支持しそれに生命を與へる思想や信念は、生の源より發したものであり且つそれぞれ典型的意義を有する。それらのうち最も有力なる又最も代表的なる二つを吾々は今試みに「存在論的」(或は本體論的 ontologisch)及び「目的論的」(teleologisch)と名づけよう。存在論的論證は、靈魂正しくいへば主體そのものの眞の存在・本質的性格より出發し、それと他者との關係交渉を原則としては考慮に入れぬものである。これと異なつて目的論的論證は世界のうちにあり又生きる主體、即ち他者との關係交渉において立つ主體を考察の對象とする。
 古代はプラトン及びプロティノスより、中世はトマス・アクィナス、近世はライプニッツやメンデルスゾーンに及んで、最も廣く行はれた姿においては、存在論的論證は主體の單純性を論據とする。物體が空間的存在を保つものとして複合的であり互に外面的に境を接する存在者より成立つのに反して、靈魂は單純であり從つてむしろ複合的なるものに統一を與へるものである故、組成する要素に分解されず從つて壞滅することがない、といふのがそれの論旨である。今局部
前へ 次へ
全140ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング