ものを、なし得べくは、生におけるそれの源まで遡つて究め、かくてそれの眞の姿を明かにすることによつて、またそれの正しき理解を得るを目的とせねばならぬ。吾々は勿論批判を試みるであらう。しかしながら、その批判は理解としてのそれ、言ひ換へれば、事柄そのものより、即ちこの場合不死性そのものの本質より、それの本來志向する所意味する所より、する批判でなければならぬであらう。

        二二

「靈」及び「魂ひ」乃至それらに該當する語は、通俗的には今日まで多くの場合死と聯關して用ゐられる(一)。原始民族の間に行はれる思想によれば、人間の死後なほ生殘るものは人間そのものであつて人間の一部分ではないことは、すでに述べた如くである。それは死骸そのものであるか、或は死骸の傍ら別の存在を保ちつつしかも結局何等かの意味において死骸と同一なるその人自身である(二)。死骸と區別されるやうになつても――これは火葬の場合特に明かに行はれることであるが――靈又は魂ひはいつも全きその人である。今最も豐かなる將來によつて惠まれ殆ど典型的發展を遂げたギリシア人について觀れば、ホメロスの詩に「プシュケー」(〔Psukhe_〕)と呼ばれ居るものは、かくの如き靈又は魂ひなのである。これは死者その人であつて、生前かれの一部分をなした何ものかが離れ出たといふが如きものではない。人間が生きてゐる間生命を司るいはば生命力ともいふべきものがなほその外にある。ホメロスではこれは「テュモス」(thumos)と呼ばれてゐるが、一般に血液又は呼吸と結び附けられ乃至同一と考へられる。これは死と共に消え失せ乃至いづこへか去つて、もはやその人とは從つて靈魂とも無關係である。魂ひをして生前の生に關與せしめぬことが原始的思想の特徴である。かかる立場においては、現に生きてゐる生の主體が、自らの死について乃至死後の運命について深き内面的省察をなすは縁近きことである。死は客觀的出來事として取扱はれる。尤もこの客觀的出來事はわが身にも振りかかつて來る故、死後の存在は生者の關心を呼ぶであらう。死後の國の王であるよりは貧しき人の地を耕す賤の男でありたい(三)、と叫んだアキレスの如く、死後の存在に、たとひ消極的意義においてにせよ、思ひを向けることは常に行はれる事であらう。しかしながら、自己の運命よりも、むしろ專ら他の人々との關係、言ひ換へれば、殘つ
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